(前編より)
「弱い自分」を隠すため、「偽りの自分」を演じ続ける。その息苦しさから逃れるために、僕はお酒という「3つ目の自分」に依存するようになりました。
救いを求めれば求めるほど、本当の自分はさらに傷つき、弱っていく。そんな出口のない袋小路の中で、「世界中でこんなに醜いのは自分だけだ」と思い込み、僕は完全に孤立していました。
しかし、その自己破壊のスパイラルから抜け出す道は、想像もしなかった場所にありました。今回は、僕が「弱さ」との向き合い方を変え、人間らしさを取り戻していく回復の道のりについてお話しします。
「弱い人」が「強い人」に見えた場所
転機となったのは、回復のために通い始めた自助会でした。
自分の弱さを誰にも話せなかった僕にとって、自分のことを話さなければならないその場所は、ひどいプレッシャーでした。まるで、自分の罪を洗いざらい告白する裁判のようだと感じていたのです。
しかし、そこで目にしたのは、僕の想像とは全く違う光景でした。
仲間たちは、僕が「恥ずかしくて外も歩けない」と感じるような自身の弱さや失敗談を、堂々と語っていたのです。その姿は、私の目には「強い」としか映りませんでした。だから最初は、とても馴染めなかった。「こんな強い人たちのいる場所で、俺は話せない」と、心を閉ざしていました。
ですが、その場所には、絶対の安全が確保されていました。
そこで話されたことは決して口外されない、という絶対のルールがあります。話の途中で口を挟まれることも、後で説教されることもありません。仲間たちは、新参者の恐怖を痛いほど分かっているから、ただ「よく来たね」と受け入れてくれるだけです。
通い続けるうちに、彼らの話に耳を傾けていると、自分との共通点がたくさんあることに気づきました。時には「自分より酷い」と感じることさえありました。その一つ一つの物語が、「世界一酷いのは自分だ」という私の固い思い込みを、少しずつ溶かしていったのです。
「こんな中にいるなら、自分のことを少し話してもいいかもしれない」
そう思えたのは、生まれて初めて「誰からも干渉されず、評価もされず、ただ自分のことだけを話せる安全な場所」に出会えたからでした。
泥をかき出し、「人間っぽく」なる感覚
初めて自分の弱さを言葉にした時の感覚は、まるで自分の中に長年溜め込んでいたダムの泥を、必死でかき出すような行為に思えました。今まで話せなくて、心の中で腐敗していたものを、どんどん外に排出したい、という強烈な欲求でした。
話すつもりもなかったのに、言葉が次から次へと溢れ出てくる。自分の内側が、どれだけ表現されることを待ち望んでいたのか、思い知らされました。
その体験を経て、僕は「人間っぽくなった」と感じました。
この感覚を言語化するのは難しいのですが、強いて言うなら、自分の中で常に働いていた不自然な力が、すっと抜けたような感じです。
これまでは、会話の中に埋められた無数の「地雷」を避けるように、常にビクビクしていました。自分について聞かれた時に、何を話せばいいのかと頭が真っ白になっていました。その地雷が、自分の弱さを語ることで、一つ、また一つと撤去されていったのです。
その結果、変にビクビクすることなく、普通に話せたり、行動できるようになった。それが、僕にとっての「人間らしさを取り戻す」という感覚でした。
もしかしたら、あなたは一人でいたいわけじゃない
もし今、かつての私のように「自分の弱さが許せない」「弱さを隠さなければ」と苦しんでいるなら、伝えたいことがあります。
多くのコミュニティに属することは、人を孤独から遠ざけ、心を共有するために必要なことです。たとえ、あなたが「自分は一人でいることを望んでいる」と思っていたとしても、です。
孤独に陥る人は、望まずとも自ら孤独に入っていくような、負のスパイラルの中にいます。だから、いつしか「自分は一人でいいんだ」と思い込んでしまうのです。
もしかしたら、本当は孤独なのが嫌なのかもしれない。
もしかしたら、自分は誰かに分かってほしいのかもしれない。
そんな風に、ほんの少しでも自分の中に疑問を持つこと。
それが、自分自身に対する見方を変え、固く握りしめた拳を緩める、最初の小さな、そして最も重要な一歩になるはずです。