もし、自分がお酒の問題を抱えているかもしれない、と感じたとき、その事実を素直に認めることはできるでしょうか。
多くの場合、そこには大きな抵抗感や恐怖が伴うものだと思います。
私自身、自分がアルコール依存症であるという事実を受け入れるまでには、非常に長く、そして苦しい葛藤の道のりがありました。
それは、人生の一部を否定されるような感覚や、これまで頼りにしてきたものを手放すことへの強い恐怖を伴うものでした。
この記事では、「認める」という行為がなぜこれほどまでに難しいのか、そしてその苦しい葛藤の先に何が見えてくるのかについて、私の経験を基に一つひとつ丁寧にお話ししていきたいと思います。
これは、「認めたらおしまい」という絶望から、「認めることは、本当の自分を知るための始まりだった」と気づくまでの記録です。
なぜ「認めること」は、これほどまでに苦しいのか
失われる「自分」という感覚への恐怖
私が最初に感じていたのは、「アルコール依存症だと認めてしまったら、自分の人生は終わってしまう」という強い絶望感でした。
そのように感じた理由は、これまで生きてきた自分の一部を、自分自身で否定しなければならないと思っていたからです。
楽しかったお酒の席、お酒によって築いてきた人間関係、つらい時に慰めてくれたお酒の存在。
それら全てが間違いだったと断罪し、自分の中から切り離さなければならないように感じていました。
また、お酒は私にとって、コミュニケーションを円滑にしたり、ストレスを和らげたりするための、いわば「万能薬」のような存在でもありました。
それを手放すことは、武器を持たずに社会という戦場に出ていくようなもので、途方もない恐怖と無力感を伴いました。
「認める」という行為は、単に事実を確認するだけでなく、自分のアイデンティティが根底から覆されるような、大きな痛みを伴う作業だったのです。
葛藤の道のりを変えた、小さな認識の変化
「誰かのため」から「自分のため」の断酒へ
断酒を始めた当初、私の動機は「家族のため」「仕事のため」といった、自分以外の誰かや何かを中心にしたものでした。
しかし、「誰かのためにやめる」という状態は、どこかで「自分は我慢している」という不満や窮屈さを生み出します。
転機が訪れたのは、そうした考え方をやめ、「これは、他の誰でもない自分自身の問題であり、自分のためにやめるのだ」と、心の底から思えたときでした。
不思議なことに、そのように考え方を変えた瞬間、心がふっと軽くなるのを感じました。
誰かに強制されるのではなく、自分の意志で自分の人生を選択しているのだという感覚が、心地よさをもたらしてくれたのです。
この小さな認識の変化が、受け身でつらいだけだった断酒を、能動的で意味のあるものへと変えていくための、最初の大きな一歩となりました。
「アルコール依存症」というラベルの先にあるもの
次に取り組んだのは、「アルコール依存症」という言葉そのものを、自分の中で深く掘り下げていくことでした。
最初は、その言葉が自分に貼られた「悪いレッテル」のように感じられ、ただただ重く感じるだけでした。
しかし、様々な人の話を聞いたり、自分自身の内面を観察したりしていくうちに、あることに気づき始めます。
それは、「アルコール依存症」というのは、あくまで自分の表面的な問題の一つに過ぎない、ということでした。
お酒の問題の根っこをたどっていくと、そこには「人からどう見られるかを過剰に気にする」「自分の本音をうまく表現できない」「白か黒かで物事を判断してしまう」といった、より根源的な自分の性格や考え方の癖が見えてきたのです。
つまり、お酒は単なる症状であり、本当の原因はもっと別のところにあるのではないか、と考えるようになりました。
この発見は、私を「アルコール依存症という病気の自分」という狭い自己認識から解放し、より広く、深い自己探求の旅へと導いてくれました。
自分を客観的に「科学する」というアプローチ
自分の内面と向き合うにあたり、私が意識したのは、ただ感情に流されるのではなく、まるで科学者が実験を観察するように、自分の心を客観的に分析することでした。
なぜ自分はあの時イライラしたのか。
どうして特定の人に対して苦手意識を感じるのか。
自分の感情や行動の裏にある「思い込み」や「前提」は何か。
そういったことを、一つひとつ冷静に分解し、言語化していく作業です。
例えば、「自分はダメな人間だ」という漠然とした自己否定の感情があったとします。
それをただ抱え続けるのではなく、「なぜ、そう思うのか?」「具体的に、どの出来事がきっかけでそう感じたのか?」「その考えは、本当に事実に基づいているのか?」と、自分自身に問いを立てていくのです。
この地道な自己分析の繰り返しが、漠然とした感情の渦に飲み込まれることなく、自分という人間を客観的に理解する助けとなりました。
まとめ:「認める」ことは終わりではなく、始まりだった
「自分はアルコール依存症だ」と認めるまでの道のりは、決して平坦なものではありませんでした。
そこには、自己否定の苦しみや、未来への絶望感も確かにありました。
しかし、今振り返ると、あの「認める」という行為は、決して人生の終わりではありませんでした。
むしろそれは、これまで見て見ぬふりをしてきた本当の自分自身と向き合い、より深く自分を理解していくための、壮大な旅の始まりだったのです。
「アルコール依存症」という一つの属性に自分を閉じ込めるのではなく、それをきっかけとして、自分の本質的な課題を探求していく。
そのプロセスの中にこそ、回復の本質があると、今の私は感じています。
もし、あなたが今、何かを「認めること」に恐怖を感じているのなら、その先には、あなたがまだ知らない新しい自分との出会いが待っているかもしれない、ということを、心の片隅に留めていただけたら幸いです。

アルコール依存症当事者です。
2020年7月から断酒しています。
ASK公認依存症予防教育アドバイザー8期生


