「迷惑をかけたくない」が、私を酒と嘘に向かわせた

私の体験談

私は、迷惑をかけたくないから酒を飲んでいました。

結果として考えれば、酒によって周囲に大きな迷惑をかけたのですから、ひどく矛盾しています。しかし、飲んでいた頃の私の中では、この二つは矛盾していませんでした。

当時の私は、酒を飲むことで、自分の中に生じた問題を自分だけで処理しているつもりでした。

人に助けを求めない。弱さを見せない。問題を外に漏らさない。そのために酒を使っていました。

少なくとも私の場合、「迷惑をかけたくない」という思いは、単なる思いやりではありませんでした。そこには、責められたくない、問題のある人間だと思われたくないという恐怖が含まれていたのだと思います。

この記事で振り返ること
  • なぜ問題を隠すことを「責任」だと思っていたのか
  • 酒が、助けを求めずに済むための道具になった経緯
  • 酒をやめた後も残っていた生き方と、その変化

迷惑をかけないために、問題を隠していた

私は昔から、自分の責任の範囲をはっきりさせようとしていました。

自分の領域で問題が起きれば、自分が責められる。だから、問題が起きないように、できるだけ先回りして把握しなければならない。そう考えていました。

私にとって「責任を取る」という言葉は、現実的な対応をすることよりも、責められ、非難され、罰を受けることに近いものでした。

そのため、責任を取れる範囲を広げるのではなく、責任が発生しそうな場所から遠ざかろうとしました。

人と深く関わらない。自分から何かを主張しない。失敗する可能性のあることを避ける。問題が起きた時には、自分の中に隠す。

それでもミスは起こります。感情も乱れます。人間である以上、完全に問題をなくすことはできません。

そこで私は、問題そのものをなくすのではなく、問題が存在していることを知られないようにするようになりました。

問題を隠すことができれば、少なくとも外から見た私は、「問題のない人間」でいられると思っていました。

私は自分の内面を、他人に見せてはいけないものだと感じていました。

つらい、寂しい、怖い、助けてほしい。そのような感情だけではありません。自分の好きなことや関心のあることなど、比較的明るい内容でさえ、人に知られることには抵抗がありました。

自分の真実を知られること自体が、自分の生存を脅かすように感じられました。

感情を抱えていることも、酒を飲んでいることも、金に困っていることも、知られなければ問題にはならないと思っていました。

だから酒を隠し、嘘をつきました。

金がなくなった時には、相談するのではなく借金をしました。金があれば、問題のある自分を他人に見せなくて済みます。酒も金も、私の内面を人から隠すための防壁になっていました。

私は問題を解決していたのではありません。問題を見えなくしていただけでした。

しかし当時は、その違いが分かりませんでした。

酒は、助けを求めなくて済むための道具だった

自分の中に不安や恐怖が生じても、私はそれをどう扱えばよいのか分かりませんでした。

人に話すという発想がありませんでした。

話したところで理解されない。弱い人間だと思われる。迷惑をかけるだけだと思っていました。

だから、自分の中で処理するしかありませんでした。

酒を飲めば、感情の動きは鈍くなりました。自分を責める声も、将来への不安も、しばらくの間は遠ざかりました。

私はそれを、自分なりの問題解決だと思っていました。

自分の内面の問題を他人に持ち込まず、自分だけで処理しているのだから、むしろ酒を飲むべきだとさえ考えていました。

酒は「迷惑をかけないための手段」であると同時に、「助けを求めなくて済むための手段」でした。

酒を使えば、人に頼らなくてよい。弱さを見せなくてよい。問題のある自分を認めなくてよい。

しかし、その方法を続けるほど、私は人から離れ、自分の状態も分からなくなっていきました。

迷惑を避けるための酒が、迷惑を広げていった

私は、人前で大きく騒ぐような飲み方をしていませんでした。

隠れて飲み、表面上は何も問題がないように振る舞っていました。そのため、自分の飲み方は周囲にそれほど影響していないと思っていました。

しかし、酒を隠すためには嘘が必要になります。

飲酒によって生活や金銭の管理ができなくなれば、さらに隠し事が増えます。人との約束を守れなくなり、説明できない行動も増えていきました。

問題を隠そうとするほど、周囲には何が起きているのか分からなくなります。

私としては、迷惑をかけないために黙っていました。しかし周囲からすれば、理由も分からないまま、私の変化や不自然な言動に巻き込まれることになります。

私が一人で問題を完結させていると思っていた時、実際には周囲もその問題の中に引き込まれていました。

「迷惑をかけたくない」という思いが、かえって大きな迷惑を生み出していました。

酒をやめても、同じ生き方は残っていた

断酒を始めた頃、私は酒を飲まないことが最低限の責任だと思っていました。

飲まないことによって、今まで迷惑をかけた分を埋め合わせようとしていたのだと思います。それは断酒を続けるうえで、一定の力になりました。

しかし、責任感だけで酒をやめ続けることには限界がありました。

酒をやめても、人に迷惑をかけてはいけないという考えは残っていました。弱さを見せてはいけない。問題は自分で処理しなければならない。自分が苦しむことで責任を取らなければならない。

酒を使えなくなったのに、酒を必要としていた生き方は、そのまま残っていました。

そのため断酒初期の私は、酒を飲めない苦しさだけでなく、今まで酒によって隠してきた自分として生きる苦しさを抱えることになりました。

酒をやめれば、問題のある自分が消えるわけではありません。

むしろ、問題のある自分が以前より鮮明に見えてきました。

人の失敗を聞くことで、自分の基準が緩んだ

それまでと違っていたのは、自助会につながっていたことでした。

最初から、自分の気持ちを正直に話せたわけではありません。私は責任感から参加し、周囲の話を聞いているだけでした。

そこでは、仲間たちが普通なら人に話せないような失敗や、酒によって起こした問題を語っていました。

最初は、どうしてそのようなことを人前で話せるのか分かりませんでした。

しかし、何度も話を聞いているうちに、私は人の失敗に驚かなくなっていきました。

この人がこの話をしても、ここから追い出されない。この人がひどい失敗をしていても、ここにいてよい。

そうした光景を繰り返し見ることで、私の中にあった「人間はこれをしてはいけない」という基準が、少しずつ緩んでいきました。

人の不完全さを許すことは、自分の不完全さを許すことにもつながりました。

「このくらいのことなら、自分も話してよいのかもしれない」

そう思えた時、私は少しずつ自分の内面を言葉にできるようになりました。

それは、酒以外の方法で自分の問題を扱い始めた瞬間でした。

回復とは、不完全なまま人と関わることだった

私は今でも、人に迷惑をかけることが平気になったわけではありません。

完全でありたい気持ちも、できれば人に頼りたくない気持ちも残っています。

しかし、その気持ちを完全になくす必要もないと思うようになりました。

完全でありたいと思いながら、実際には不完全である。その両方が同時に存在してもよいのだと思います。

人に頼る時に罪悪感を持つこともあります。それでも、困っていることを隠し、嘘をつき、酒や金で表面だけを取り繕うよりは、自分の状態を伝える方が現実的な責任の取り方になります。

「迷惑をかけてもいい」とは、相手の都合を考えず、何をしてもよいという意味ではありません。

自分にはできないことがあると認め、そのうえで何を頼み、何を自分で引き受けるかを考えるということです。

当時の私

問題を隠し、自分だけで苦しみ、罰を受けることが「責任」だと思っていました。

現在の私

問題を隠さず、何が起きたのかを見て、必要なことを伝え、可能な範囲で対応することが「責任」だと考えています。

失敗をしないことが責任なのではありません。

失敗した時に隠さず、何が起きたのかを見て、可能な範囲で対応することが責任なのだと思います。

私の場合、酒だけを見ていても、自分の依存症を十分に理解することはできませんでした。

問題のある人間であってはいけない。人に迷惑をかけてはいけない。弱さを知られてはいけない。自分の問題は自分だけで処理しなければならない。

そうした生き方が先にあり、酒はその生き方を維持するための道具になっていました。

酒を飲むことで、一時的には人に頼らずに済みました。しかし長い目で見れば、私はより深く孤立し、より多くの嘘を必要とし、自分にも周囲にも大きな負担を生じさせました。

だから私にとっての回復は、単に酒を飲まなくなることだけではありません。

問題のある自分を隠さずに生きること。助けを求めることを、ただの迷惑だと決めつけないこと。責任を取ることと、自分を罰することを分けて考えること。

そして、不完全な自分のまま他者と関わることでした。

少なくとも私の場合、酒を手放すためには、「迷惑をかけない人間」であろうとする生き方を、少しずつ手放す必要がありました。

ここに書いたことは、私自身の経験から見えてきた依存症の捉え方です。すべてのアルコール依存症者に、同じ背景や心理、回復の経過が当てはまるわけではありません。

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