はじめに
「依存症」と「幸福」。
この二つの言葉は、多くの人にとって水と油のように、決して交わることのない対極の存在に思えるでしょう。
幸福が光であるならば、依存症は紛れもなく闇。
私自身、アルコール依存症という長いトンネルの中にいた頃は、幸福など自分とは縁のない、遠い世界の言葉だと感じていました。
しかし、回復の道を歩み始めた今、私はこの二つの間に、不思議で、そして深い関係があることに気づかされます。
なぜ私は、そして多くの仲間たちは、幸福を追い求めたはずが、いつしか自分を蝕むものに深く依存してしまったのでしょうか。
幸福とは一体何なのか。
それは、どこにあるのでしょうか。
この記事では、私が依存症との格闘の中で見つめ続けた「幸福」というテーマについて、自身の経験と思索をたどりながら、その不思議な関係を紐解いていきたいと思います。
幸福という名の「鎧」
振り返れば、飲酒時代の私は常に「幸福にならなければならない」という強迫観念に駆られていました。
しかし、その幸福とは、自分自身の心から湧き上がる穏やかな感情ではありませんでした。
それは、「こうあるべきだ」という社会や自分自身が作り上げた理想像(自己像)に自分を合致させることでした。
私の中には、漠然としながらも非常に強固な「理想の自分」が存在していました。
それは、弱音を吐かず、問題を一人で解決し、常に「普通」で「大丈夫」な人間。
この理想像は、社会で生きていくための「鎧」のようなものだったのかもしれません。
しかし、現実の私は、不安や劣等感を抱え、とてもその鎧を着こなせるような強い人間ではありませんでした。
この「理想の自分」と「ありのままの自分」との間には、あまりに大きなギャップがありました。
そのギャップは、私の心にぽっかりと穴を開け、絶え間ない欠乏感を生み出していたのです。
『自分はダメな人間だ』『何かが足りない』。
その自己否定の囁きから逃れるために、私は外部からの評価や成功を求めましたが、たとえ何かを成し遂げたとしても、その穴が埋まることはありませんでした。
なぜなら、価値の低い自分がやったことには価値がない、と無意識に感じていたからです。
そんな時、アルコールはまるで万能薬のように現れました。
飲むと、理性の働きが鈍り、私を責め立てる鎧の声が小さくなります。
不安が和らぎ、普段は出せない弱い自分を少しだけ表現できるような気がしました。
それは、あの苦しいギャップを一時的に埋めてくれる、甘美な体験でした。
私は、鎧の重さから解放されるこの瞬間こそが「幸福」なのだと錯覚し、それを手に入れるために、さらに酒を求めるようになっていったのです。
しかし、それは本当の幸福ではありませんでした。
むしろ、満たされない自分を正当化するための言い訳を探しているような状態だったのかもしれません。
理想の幸福を追い求めれば求めるほど、現実の自分はアルコールに溺れ、心も体もボロボロになっていく。
幸福という名の鎧は、いつしか私を閉じ込める牢獄と化していたのです。
「降参」から始まる幸福
私が着込んでいた幸福の鎧は、やがて限界を迎え、崩壊を始めました。
嘘で塗り固めた生活は破綻し、私は心身ともに壊れ、ついには精神病院の扉を叩くことになります。
それは、私が「生き恥」とまで感じた、人生のどん底でした。
しかし、皮肉なことに、この「底つき」という徹底的な絶望こそが、回復への、そして新しい幸福への扉を開く鍵となったのです。
回復の第一歩は、「自分はアルコールの前では無力である」と認めることだと教えられます。
これは、言葉で言うほど簡単なことではありません。
これまで必死に鎧を着て頑張ってきた自分を、自分の手で否定する行為だからです。
しかし、どうにもならない状況に追い込まれ、「もう無理だ」と両手を挙げた時、不思議なことが起こります。
勝ち目のない戦いを「降参(諦める)」した瞬間、心からふっと力が抜けていくのです。
それは、自分をコントロールしようとするのをやめ、自分の弱さをありのままに受け入れる「受容」の始まりでした。
私が幸福だと思っていた「理想の自分になること」を諦めた時、初めて本当の幸福への道が見えてきたのです。
その道へと導いてくれたのが、自助会の存在でした。
そこは、社会的地位や経歴といった一切の鎧を脱ぎ捨て、誰もがただ一人の「弱さを持った人間」として、自分の本音を安心して語れる場所でした。
初めて自分の恥や罪をありのままに語った時、仲間たちは誰も私を責めず、ただ静かに耳を傾けてくれました。
その温かい眼差しの中で、私は「自分はここにいてもいいんだ」と、生まれて初めて心の底から感じることができたのです。
それは、アルコールがもたらす一瞬の興奮とは全く違う、じんわりと心に広がる穏やかな感覚でした。
鎧を脱ぎ、弱さをさらけ出すことで、人は拒絶されるのではなく、むしろ他者と深く繋がることができる。
この発見は、私の幸福の定義を根底から覆すものでした。
私が本当に求めていたのは、強くなることではなく、弱いままの自分を許し、誰かと繋がることだったのです。
幸福とは「状態」ではなく「旅」である
では、鎧を脱ぎ、ありのままの自分で歩き始めた今、私の人生は「バラ色」になったのでしょうか。
ポストにあった言葉を借りれば、答えは明確に「ノー」です。
回復とは、問題がすべて消え去り、完璧な幸福という目的地に到達することではありません。
それは、自分の心と向き合い続ける、「終わりのない旅」そのものなのです。
断酒を始めた当初、私は「一生お酒を我慢しなければならない」という考えに苦しみました。
それは、幸福というゴールに向かって、ひたすら耐え忍ぶ「忍耐」の道のように思えました。
しかし、回復が進むにつれて、その感覚は変わっていきます。
大切なのは、遠い未来のゴールではなく、「今日一日飲まない」という、今この瞬間の一歩なのだと気づかされたのです。
この「今日一日」という考え方は、幸福との向き合い方にも通じています。
かつての私は、「〇〇を手に入れれば幸福になれる」という未来の目標にばかり囚われていました。
しかし、幸福とは、未来のどこかで手に入れるものではなく、今この瞬間の自分自身のあり方の中に見出すものなのです。
そのために必要なのは、自分自身と対話し、自分の心の声に耳を澄ますことです。
自分を否定する内なる声に気づき、その声に反論するのではなく、「ああ、自分は今、自分を否定しているな」と、ただ眺める。
自分の中に湧き上がる感情を、良いも悪いもなく、ただ「そう感じているんだね」と認めてやる。
この、自分自身と丁寧に関わるプロセスの中に、穏やかで揺るぎない幸福が存在します。
それは、外部の出来事に左右される脆いものではなく、自分自身で価値を与え、育んでいくことのできる幸福です。
おわりに
依存症は、私から多くのものを奪っていきました。
しかし、それと同時に、何ものにも代えがたい大切なことを教えてくれました。
それは、私が追い求めていた幸福の姿が、そもそも歪んだ幻想に過ぎなかったということです。
本当の幸福は、弱さを克服し、完璧な鎧を身につけた先にあるのではありませんでした。
むしろ、その鎧を脱ぎ捨て、自分の無力さと弱さを認め、不完全なままの自分を許した時に、静かに訪れるものでした。
それは、一人で強くなることではなく、弱いまま誰かと繋がることの温かさでした。
この旅に、終わりはありません。
しかし、今はもう、かつてのように暗闇の中を手探りで進んでいる感覚はありません。
自分自身と対話し、仲間の声に耳を傾ければ、進むべき道は自ずと照らされます。
依存症という深い闇を経験したからこそ、その先に灯る光が、これほどまでに温かく、尊いものだと感じられるのかもしれません。

アルコール依存症当事者です。
2020年7月から断酒しています。
ASK公認依存症予防教育アドバイザー8期生