酒をやめることが、人生の否定に感じられた私|「諦め」までの道

私の体験談

「酒をやめた方がいい」と言われても、私には回復への助言として聞こえませんでした。

酒を使って今日まで生きてきた私にとって、その言葉は「お前の生き方はすべて間違っている」と言われることに近かったからです。

飲酒によって生活に問題が起きていることは、私にも分かっていました。

酒を減らした方がよいことも、やめれば問題の一部がなくなることも、頭では理解できました。

それでも、酒を手放すことには抵抗しました。

酒が好きだったから、という説明だけでは足りません。

私にとって酒は、人と話すこと、感情を処理すること、考えるのを止めること、社会で見せる自分を維持することに使うものでした。

酒をやめることは、それらの方法を一度に失うことでした。

私が守ろうとしていたのは、酒を飲む自由だけではありませんでした。酒を使って何とか生きてきた、自分の生き方そのものでした。
この記事で振り返ること
  • なぜ「酒をやめる」という正論を受け入れられなかったのか
  • 酒が私の生き方を支える役割を持っていたこと
  • やめたい気持ちと、酒を失いたくない気持ちが同時にあったこと
  • 自分のやり方を修理し続けた末に起きたこと
  • 私にとって「諦める」とは何だったのか

酒を守ることは、自分の人生を守ることだった

私は、自分なりに人生を頑張ってきたという思いを持っていました。

再受験をして大学へ合格した経験もあり、自分は努力と我慢によって困難を乗り越えられる人間だと思っていました。

実際に、その方法で乗り越えられたこともあったと思います。

苦しい状況でも耐える。

自分で方法を考える。

人へ弱さを見せず、必要な役割を果たす。

私は、そのようなやり方で社会の中へ戻ろうとしていました。

しかし、その裏側では、処理できない感情や疲労がたまり続けていました。

外で見せる自分を動かすために、内側にいる自分へ酒を与えました。

酒を飲んでいる時間だけは、社会で通用する自分を維持しなくてもよくなりました。

酒は、私が頑張らなかった証拠ではありませんでした。頑張り続ける生活を維持するために使っていたものでした。

だから酒を否定されると、自分が今日まで生きてきた方法まで否定されたように感じました。

「その方法ではもう生きられない」と言われても、私には代わりの方法がありませんでした。

正しい助言ほど、私には残酷に聞こえた

周囲から見れば、酒をやめることは当然の結論だったと思います。

飲酒によって問題が起きているのだから、酒をやめればよい。

飲み続ければ、さらに生活が悪化する。

その説明に間違いはありません。

しかし、当時の私には、その正しさを受け取る余裕がありませんでした。

酒をやめた後に、人とどう話せばよいのか。

不安や怒りを、どのように処理すればよいのか。

酒を使わずに、どうやって眠り、休み、明日へ進めばよいのか。

それが分からないまま、「酒だけをやめなさい」と言われているように感じました。

周囲が伝えていたこと

酒によって生活が壊れている。これ以上問題を増やさないために、酒から離れた方がよい。

私に聞こえていたこと

これまで使ってきた生きる方法を捨て、何の支えもない状態で生きなさい。

周囲と私では、同じ「酒をやめる」という言葉から見えているものが違いました。

私は健康や生活上の損失よりも、酒を失った後に残る自分を恐れていました。

酒の問題を理解していなかっただけではありません。酒がなくなった後の自分に、生活を続ける能力がないと感じていました。

やめたい気持ちと、酒を失いたくない気持ちは同時にあった

私は何度も、酒をやめたいと思いました。

酒による問題を終わらせたい。

周囲へ嘘をつかずに暮らしたい。

飲酒に時間や生活を支配されたくない。

その気持ちは本当でした。

一方で、酒を完全に失いたくない気持ちもありました。

酒がなければ、今の苦しさに耐えられない。

いつか問題なく飲める自分へ戻りたい。

酒をやめたら、自分には何も残らないかもしれない。

その気持ちも、私の中にありました。

酒をやめたいと言った私も本心でした。できれば酒を残しておきたいと思った私も、本心でした。

私は、人の気持ちを零か百かで考えていました。

本当にやめたいなら、酒を惜しむはずがない。

酒を飲みたいなら、最初からやめる気などなかった。

そのように考えると、自分の中にある矛盾を理解できません。

決意が揺れるたびに、私は自分を信用できなくなりました。

しかし実際には、二つの気持ちを持ったまま、私は酒をやめようとしていました。

当時は認められなかったこと

酒による問題を終わらせたい。同時に、酒が果たしていた役割は失いたくない。この二つは、同じ人間の中に存在していました。

私は酒をやめるのではなく、飲み方を修理しようとした

酒によって問題が起きるたびに、私は方法を変えようとしました。

飲む量を減らす。

飲む時間を決める。

仕事や予定に影響しないようにする。

次はもっと自分を管理する。

酒を手放すのではなく、問題のない飲み方へ戻ろうとしました。

その理由は、自分にはまだ酒を扱う力があると思いたかったからです。

これまで努力や我慢によって問題を乗り越えてきたのだから、酒の問題も同じように扱えるはずだと考えました。

うまくいかなければ、方法ではなく自分の努力を疑いました。

まだ真剣さが足りない。

管理が甘かった。

次は、もっと厳しくすればよい。

私は自分の方法が使えない可能性を考えず、その方法をさらに徹底しようとしていました。

しかし、努力と我慢によって外側の生活を整えても、内側にたまっていた感情には届きませんでした。

不安や孤独、自己否定、人へ自分を見せられない苦しさは残ります。

その苦しさを処理するために、再び酒が必要になりました。

失敗していたのは、意志ではなく方法だった

当時の私は、酒を管理できないたびに、自分の意志が足りないと思いました。

しかし振り返ると、私が続けていたのは、すでに何度も失敗している方法でした。

一人で決意する。

一人で管理する。

失敗を隠す。

自分を責めて、次はもっと頑張る。

この方法を繰り返しながら、結果だけが変わることを期待していました。

私は酒に負けない自分を作ろうとしていましたが、その努力自体が、酒を必要とする生活を続けていました。

自分の方法をやめれば、過去の努力が無駄になるように感じました。

ここまで一人で頑張ってきたのだから、最後まで自分で解決しなければならない。

その思いが、別の方法を試すことを難しくしていました。

私に必要だったのは、さらに頑張ることではありませんでした。

自分の方法だけでは結果が変わらないと認めることでした。

「もう無理だ」は、きれいな転機ではなかった

自分一人では無理だと認めた瞬間を、穏やかな気づきとして説明することはできません。

私の場合は、酒による苦しみと生活上の問題が大きくなり、それまでの説明が通用しなくなった結果でした。

自分なら管理できる。

次はうまくできる。

まだ人へ助けを求めるほどではない。

そのように考える余地が、少しずつなくなりました。

それは、達成感のある瞬間ではありませんでした。

自分が守ってきた社会的な姿や、自分なら何とかできるという説明を維持できなくなっただけでした。

私が諦めたのは、十分に考えて納得したからではありません。自分のやり方を続ける余力がなくなったからでした。

この経験を、回復のために必要な美しい出来事として勧めることはできません。

生活が破綻するまで待つ必要はありません。

私の場合は限界に近づくまで認められなかったというだけで、もっと早く人の力へつながれるなら、その方がよいと思います。

限界まで苦しんだことが私を優れた人間にしたのではありません。限界まで行かなければ、別の方法を受け入れられなかっただけです。

自分の答えがなくなった時、人の話が聞こえた

それまでも、周囲の人は私へさまざまな言葉を伝えていました。

しかし私は、人の話を聞きながら、自分には当てはまらない理由を探しました。

この人と自分では状況が違う。

自分はまだそこまで悪くない。

自分には、自分に合った方法がある。

人の言葉を聞いても、最後には自分の考えへ戻りました。

ところが、自分には答えがないかもしれないと感じた時、人の話が以前とは違って聞こえました。

自助会で語られている失敗や苦しさが、自分にも関係のある話として入ってきました。

その人が、酒を飲まずに以前より楽に生きているように見えると、自分にも試せることがあるのではないかと思いました。

私が自分の方法を諦めるまで
  1. 1 自分で管理する

    意志と工夫によって、酒を問題なく飲めると考える。

  2. 2 失敗を修理する

    方法を変えず、自分への規制と努力を増やす。

  3. 3 答えがなくなる

    同じことを繰り返し、自分の方法だけでは難しいと感じる。

  4. 4 人の経験を試す

    自分には分からないと認め、他者が行っていることを試してみる。

人の言いなりになったのではなく、自分の方法だけを唯一の答えにすることをやめました。

人の話を聞けるようになったからといって、すぐにすべてを信じたわけではありません。

それでも、「自分には関係がない」と最初から閉じることは少なくなりました。

分からないなら、すでに酒をやめて生活している人の方法を試してみる。

その程度のところから始まりました。

私が諦めたものと、諦めなかったもの

「諦める」という言葉には、人生を投げ出すような印象があります。

私も、自分の力では無理だと認めれば、何もできない人間になると思っていました。

しかし、私が実際に諦めたのは、人生そのものではありませんでした。

諦めたこと

酒を自分の意志で管理すること、以前と同じ生き方へ戻ること、一人で回復を完成させること。

諦めなかったこと

酒を飲まない生活を選ぶこと、人の経験を聞くこと、自分の状態を話すこと、今日できる行動を続けること。

すべてを自分の力で変えることは諦めました。

しかし、自分にできる行動まで捨てたわけではありません。

むしろ、できないことを認めたことで、できることが見えやすくなりました。

「自分には何もできない」と諦めたのではありません。「自分なら何でもできる」という前提を諦めました。

諦めたことで、選べることが増えた

自分には力がないと認めたら、自由がなくなると思っていました。

しかし実際には、すべてを自分の責任にしなくてもよいと知りました。

分からない時には、人へ尋ねることができます。

一人では扱えない問題を、相談先へ渡すことができます。

疲れている時に、無理に答えを出さず休むこともできます。

酒を飲まないことも、周囲に命令されて従うだけではなく、自分の生活を楽にするための選択として考えられるようになりました。

分からないと認めてもよい
一人で解決しなくてもよい
すべての責任を負わなくてもよい
今日、酒を飲まない方を選べる

自分の力に固執していた頃の方が、私の選択肢は少なかったのだと思います。

自分で何とかするか、酒で何も考えなくするか。

その二つを行き来していました。

自分の方法を諦めることで、その間に人へ話す、待つ、休む、助けを借りるという選択肢が入りました。

私にとって諦めることは、行動をやめることではありませんでした。使えない方法を握り続けることをやめ、別の方法を選べるようになることでした。

今でも、完全に諦められたわけではない

現在の私も、自分の力で何とかしたくなることがあります。

人へ相談する前に、もう少し自分で考えようとします。

自分のやり方が正しいと証明したくなることもあります。

一度諦めたから、二度と元の考えへ戻らないわけではありません。

ただ、以前の方法へ戻ろうとしている自分に気づけることがあります。

今、自分は何を一人で管理しようとしているのか。

人へ話さないことで、また問題を秘密にしていないか。

結果を思い通りにしようとして、自分を追い込んでいないか。

それを確認し、必要なら人へ話します。

現在の私が考える「諦め」

一度きりの決断ではなく、自分では動かせないことを見つけるたびに、握っている力を少し緩めることです。

回復は、すべてを理解した人間になることではありませんでした。

分からないことや、できないことが残っていても、酒を使わずに生活できる方法を続けることでした。

私は酒をやめることで、人生を失うと思っていました。

実際に失ったのは、酒を使わなければ維持できなかった生き方でした。

その生き方を失った後に、すぐ新しい人生が完成したわけではありません。

ただ、自分の方法だけでは無理だと認めたことで、人の経験を借りながら、別の生活を作る余地が生まれました。

「酒をやめたら人生が終わる」と感じていた私にとって、諦めの先にあったのは終わりではありませんでした。自分一人では思いつかなかった方法を試せる時間でした。

ここに書いたことは、私自身の飲酒と回復の経験から考えたものです。生活が破綻するほど苦しむことが、回復のために必要という意味ではありません。飲酒を自分では管理できないと感じている場合や、酒をやめることに不安がある場合は、問題がさらに大きくなる前に、医療機関や公的相談窓口などへ相談することも大切です。

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