回復を拒む心と、諦めに至るまでの道

私の体験談

回復を拒む心と、諦めに至るまでの道のり

アルコール依存からの回復を目指す過程で「お酒をやめましょう」という言葉は、確かに正論です

しかし、当事者にとって、単にその言葉を伝えるのは受け入れ難いほどの重圧となり、強い拒絶感を引き起こすことがあります。

私の感覚から言えば、それは「生きるのをやめろ」と感じるほど、深刻な感覚を伴う場合があるのです。

この記事では、なぜそのような強い抵抗感が生まれるのか、そしてその苦しみの先にある「諦め」に至るまでの内面的な道のりについて、深く掘り下げていきます。


「頑張ってきた人生」そのものを否定される感覚

アルコール依存の問題を抱える方の中には、「自分は社会で必死に頑張ってきた」という強い自負心を持っている方が少なくありません。

「苦しい思いをしながらも、何とか生き抜いてきた」「そのためにアルコールの力が必要だった」という認識が、ご自身のアイデンティティの一部となっていることがあります。

そのような方にとって、「お酒をやめる」という提案は、単に飲酒習慣を変えるというレベルの話ではなく、これまで懸命に生きてきた自分の人生そのものを「間違っていた」と否定されるように感じられるのです。

それは、自分の存在意義や、生きるために費やしてきた努力の全てが、無に帰すかのような感覚を伴うかもしれません。


「自分」を失うことへの強い不安

また、長い期間アルコールと共に生きてきた場合、飲酒が自己表現の方法であったり、感情を処理するための手段であったりしたと感じていることがあります。

お酒の力を借りて何とか保っていた心のバランスや、社会との関わりがあったとすれば、それを取り上げることは、ご本人にとって「何もできない自分」になってしまうことへの強い不安を意味します。

「お酒をやめたら、自分には何が残るのか」「自分は機能不全に陥ってしまうのではないか」。

こうした不安は、ご自身の能力や存在そのものが奪われるような、深刻な危機感として現れることがあります。

「諦める」ということは、この「お酒に頼っていた自分」という、慣れ親しんだ自己像をも手放すことを意味するため、非常に大きな痛みを伴う決断となるのです。


繰り返される挫折と、向き合う現実の苦しさ

仮に一度、断酒を決意したとしても、その道は平坦ではありません。

多くの場合、お酒のない状態で現実社会と向き合うことの困難さに直面します。

かつて自分が目指していた「まともな自分」であろうとすればするほど、理想と現実のギャップに苦しみ、挫折を繰り返してしまうことがあります。

このプロセスは、自分が作り上げてきた自己像がいかに現実とかけ離れていたか、そして自分がいかに無力であったかを、繰り返し思い知らされる苦しい体験となるかもしれません。

「もうこの人生は終わりだ」と感じるほどの、徹底的な自己否定を経験することもあります。


絶望の先にある「諦め」という転換点

しかし、逆説的ではありますが、この「もうどうにもならない」という絶望的な感覚こそが、真の「諦め」へと至るための重要な転換点となることがあります。

何度も失敗し、自分の力の限界を知り、これまで必死に守ってきたプライドや自己像が完全に打ち砕かれたとき。

そのときに初めて、人は過去の生き方や、お酒に依存していた自分自身を手放す覚悟を持つことができるのかもしれません。

ここで言う「諦め」とは、人生を投げ出すことではなく、自分の無力さを認め、過去の自分にしがみつくことをやめる、という非常に困難な決断です。

この壮絶な苦しみと内面的な葛藤を経た先に、ようやく回復への新しい道が拓けてくるのです。

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