人の問題まで自分の責任にしていた私|依存症と境界線

回復のヒント

誰かが不機嫌になると、私は自分が悪いことをしたように感じました。

人の感情や問題まで背負う一方で、自分の飲酒や苦しさは人へ見せませんでした。私には、どこまでが自分の責任で、どこからが相手の領域なのかが分かりませんでした。

私は以前、人に迷惑をかけないように生きているつもりでした。

相手の機嫌を損ねないように言葉を選び、期待を裏切らないように振る舞い、困っている人がいれば自分が何とかしなければならないと思いました。

その一方で、自分が本当に困っている時には、人へ何も伝えませんでした。

酒をどれほど飲んでいるのか。生活がどの程度崩れているのか。何が怖く、何に耐えられなくなっているのか。

それらは自分だけで処理する問題だと考えていました。

人の問題には入り込み、自分の問題からは人を締め出していたのです。

私の境界線は、単に薄かったのではありません。人の感情は自分の中へ入れるのに、自分の苦しさは外へ出さないという、偏った引き方になっていました。
この記事で振り返ること
  • 人の感情まで自分の責任にしていたこと
  • 自分の問題だけは隠していたこと
  • 責任を抱えすぎた後に酒を必要としたこと
  • 人へ正直に話す中で、責任の範囲が見えたこと
  • 相手を助けることと、相手を変えようとすることの違い

相手の不機嫌は、私の失敗だと思っていた

人と一緒にいる時、私は相手の表情や声の調子をよく見ていました。

返事が短い。表情が暗い。いつもより口数が少ない。

そのような変化を感じると、まず「自分が何か悪いことをしたのではないか」と考えました。

相手が仕事で疲れているかもしれない、別の悩みを抱えているかもしれないという可能性より、自分の言動が原因だと考えました。

そして、相手の機嫌を戻すために何をすればよいかを考え始めました。

謝った方がよいのか。明るく振る舞った方がよいのか。相手の望む答えを出した方がよいのか。

本当に自分へ怒っているのかを確かめる前に、自分が責任を負いました。

相手が何を感じているかを尋ねるより先に、私は相手の感情の原因と解決役を、自分の中で引き受けていました。

そのため、人といる間は落ち着きませんでした。

相手の感情が変わるたびに、自分の価値や安全も変わるように感じたからです。

相手が満足していれば、自分はここにいてよい。

相手が不満そうなら、自分は何かを間違えている。

私は、自分がどう感じているかより、相手が自分をどう見ているかによって自分の状態を決めていました。

人の反応を見て、自分の立ち位置を決めていた

振り返ると、私はかなり早い時期から、人の反応を手がかりにして自分の行動を決めていました。

何を言えば受け入れられるのか。

何をすれば責められずに済むのか。

どのような自分でいれば、居場所を失わずに済むのか。

私にとって人間関係は、自分と相手が別々の人間として関わるものというより、相手の反応に合わせて自分を調整する場所になっていました。

その生き方は、相手との衝突を避けるためには役立ちました。

しかし、相手の希望と自分の希望が違う時にも、自分の方を引っ込めるようになりました。

本当は嫌でも断れません。

分からなくても、分かったような返事をします。

疲れていても、相手が望んでいるように見えれば引き受けました。

私が無意識に確認していたこと

自分は何を望んでいるかではなく、相手から責められず、見放されずに済むのはどの行動か。

自分の希望を持つことが悪いのではありません。

しかし私は、自分の希望があること自体を、相手への迷惑のように感じていました。

自分の苦しさだけは、自分の中へ閉じ込めた

人の気持ちを気にする一方で、私は自分の気持ちを人へ伝えませんでした。

自分が不安だと話せば、相手を心配させます。

苦しいと話せば、相手へ問題を渡すことになります。

できないと言えば、相手の期待を裏切ります。

そのように考え、自分の問題は自分の領域から出してはいけないと思いました。

しかし、誰にも話さないまま、自分一人で問題を扱えるわけでもありませんでした。

飲酒が増え、生活上の問題が起きても、私は大丈夫なふりを続けました。

周囲の人には、自分が実際にどの程度困っているのか分かりません。

私は人へ迷惑をかけないために隠しているつもりでしたが、問題が大きくなるほど、周囲は理由の分からない変化へ巻き込まれました。

人の領域へ入り込みながら、自分の領域には誰も入れない。その状態では、対等な関係を作ることができませんでした。
私が抱え込んでいたもの

相手の不機嫌、期待、評価、失望、将来の反応など、自分では決められないもの。

人へ見せなかったもの

自分の不安、限界、飲酒量、助けが必要な状態など、本来は伝える必要があったもの。

私は責任を引き受けていたつもりでした。

実際には、自分には扱えないものを抱え、自分が扱うべき問題を隠していました。

人の問題まで背負うと、内側に不満が残った

相手へ合わせ続けていると、表面上は争いを避けられます。

しかし、私の内側には不満が残りました。

これだけ自分が我慢しているのに、相手は分かってくれない。

自分は相手のことを考えているのに、相手は自分を大切にしてくれない。

頼まれたから引き受けたはずなのに、途中から相手へ怒りを感じました。

本当は断りたかったことや、自分から進んで引き受けたことも、後になって相手に押しつけられたように感じる場合がありました。

自分で「はい」と答えたことを認められない時、私は相手を責めることで、自分の選択を見なくて済ませました。

自分の希望を言わず、相手の希望を読み取り、後から不満を抱える。

相手から見れば、私は納得して引き受けたように見えます。

私だけが内側で苦しくなり、相手はそのことを知りません。

そして私は、「やはり人は自分を分かってくれない」と考えました。

分かってもらうために必要な言葉を、私は相手へ渡していませんでした。

酒を飲むと、すべてを自分の責任にしなくて済んだ

相手の感情や期待を背負い続けると、私は疲れました。

自分の言葉や行動を細かく確認し、周囲に問題が起きないようにしながら生活していました。

酒を飲むと、その監視が一時的に止まりました。

誰が何を思っているのかを、考えなくて済みます。

相手の期待に応えられているかも、明日の問題も、過去の失敗も、遠くなりました。

素面の私は、自分に関係のないものまで責任として抱えました。

酔った私は、自分が本当に引き受けるべきものまで考えなくなりました。

私は、責任を抱えすぎる状態と、責任をすべて感じなくする状態を、酒によって行き来していました。
境界が分からないまま飲酒が続いた流れ
人の感情や期待まで背負う
疲労と不満がたまる
酒で何も考えなくする
新しい問題と責任が増える

酒を飲んだ結果、約束を守れない、生活を管理できない、周囲へ嘘をつくといった問題が増えました。

すると私は、今度こそ迷惑をかけない人間にならなければならないと考えました。

そして、以前より多くの責任を背負いました。

背負いすぎて酒を飲み、飲んだことで本当の責任が増え、その責任を埋め合わせるためにまた背負い込む。

私はこの循環を繰り返しました。

自分と相手を分けることを、冷たい行為だと思っていた

私は以前、自分と相手の問題を分けることに、冷たい印象を持っていました。

困っている人がいるのに「それはあなたの問題です」と言うのは、見捨てることのように感じました。

相手の感情へ責任を持たないことは、自分勝手な態度だと思っていました。

しかし、自分と相手を分けないまま関わると、私は相手の考えや行動を変えようとします。

自分がこれだけ説明すれば、相手は分かるはずだ。

正しい方法を伝えれば、相手は行動するはずだ。

自分が助け続ければ、相手の問題は解決するはずだ。

その期待どおりに相手が動かなければ、失望したり、怒ったりしました。

相手を思っているつもりでも、相手が自分の望むように変わることまで求めれば、それは相手の領域へ入ることになります。

人を助けることと、人を変えることは違いました。

自分の経験を話すことはできます。

求められれば、自分に分かる範囲で意見を伝えることもできます。

しかし、相手がその言葉を受け取るか、いつ行動を変えるかは、私には決められません。

過去の自分に会っても、変えることはできない

自助会で、飲んでいた頃の自分に似た人と出会うことがあります。

周囲の言葉を聞かず、自分ならまだ管理できると考え、助けを必要としていることを認めない人です。

その姿を見ると、何かを伝えたくなることがあります。

しかし、過去の私も、人から何を言われても受け入れられませんでした。

自分が変わる必要を感じていない時に、周囲が正しい言葉を探しても、本人の中には入りません。

私自身、何がきっかけで人の話を聞けるようになったのか、完全には説明できません。

自分には力がないかもしれないと感じた時に、初めて他者の言葉が耳に入ったのです。

私にできるのは、自分にとって役立った経験を伝えるところまでです。その経験を相手の人生で使うかどうかは、相手が決めることです。

以前の私は、相手が変わらなければ、自分の説明が足りないと思いました。

現在は、言葉を渡した後に待つことも、人との境界を守る行為だと考えています。

一年後や二年後に、その話を思い出すかもしれません。

何も思い出さないかもしれません。

その結果を、自分の力で決めることはできません。

私の飲酒を、家族が背負う必要もなかった

自分と他者の問題を分けることは、私だけに必要なことではありませんでした。

私の飲酒によって苦しんだ家族も、私の行動を自分たちの責任として背負う必要はなかったのだと思います。

家族が正しい言葉を使えば、私が酒をやめる。

家族がもっと理解すれば、私が回復する。

家族がそばで監視すれば、私が飲まなくなる。

そのような関係になれば、家族の生活まで私の飲酒を中心に動くことになります。

しかし、私の代わりに酒をやめることは、誰にもできません。

周囲がどれほど私を思っていても、私が助けを受け入れ、自分の問題として向き合う部分は残ります。

家族が距離を取ることは、私を見捨てることと同じではありません。家族が自分の生活を守り、私が自分の問題を引き受けるために必要な場合もあります。

私の問題に巻き込まれた人が、自分の安全や平穏を優先することを、私には止められません。

相手がどの距離を選ぶかも、相手の領域です。

私にできるのは、その選択を操作することではなく、自分の行動を見直すことです。

人へ正直に話すと、線の位置が見えてきた

境界線について考えるだけでは、私は自分の思い込みに気づけませんでした。

私の考え方は、私にとって当たり前だったからです。

誰かが不機嫌なら自分のせいだと考えることも、できないと言えず引き受けることも、普通だと思っていました。

自助会で具体的な出来事を話すと、少しずつ違いが見えるようになりました。

「相手の顔色が悪かったので、自分が悪いと思った」

「断れずに引き受けたのに、後から相手へ腹が立った」

「謝ったのだから、相手には許してほしいと思った」

言葉にすると、出来事と自分の解釈を分けて見られる場合があります。

責任の範囲を確かめるようになった順序
  1. 1 事実を見る

    実際に何が起き、相手は何を言ったのかを確認する。

  2. 2 解釈を分ける

    「自分が悪いはずだ」という考えが加わっていないかを見る。

  3. 3 自分の行動を選ぶ

    謝る、断る、説明する、相談するなど、自分ができる行動を考える。

  4. 4 結果を相手へ返す

    相手がどう感じ、どう判断するかは、相手に委ねる。

自分の責任を放棄するのではなく、自分が実際に選べる行動へ責任を戻します。

いつもこの順序で冷静に考えられるわけではありません。

相手の反応を見て、すぐに自分を責めることもあります。

それでも、以前のように「自分が悪い」と決めたところで考えることを終えずに済むようになりました。

責任を分けることは、自分の責任を減らすことではなかった

境界線を引くという言葉は、都合の悪いことを相手の責任にする意味でも使えてしまいます。

「相手がどう感じるかは相手の問題だ」と言って、自分の言動が与えた影響を考えなければ、ただの責任逃れになります。

私が相手を傷つけたなら、自分の言動を見る必要があります。

酒によって迷惑をかけたなら、起きたことを認め、可能な対応をする必要があります。

約束を守れなかったなら、その事実を自分の責任として扱います。

ただし、謝った後に相手が許してくれるかどうかは、私には決められません。

対応した結果、以前と同じ関係へ戻れるかどうかも分かりません。

境界線とは、自分の責任を小さくするための線ではありません。自分が引き受けるべき行動と、自分には支配できない結果を分ける線でした。
責任を考える時に確認していること
  • これは実際に自分がした行動なのか
  • 相手の感情を、自分が決めようとしていないか
  • 自分の希望を伝えず、相手に察してもらおうとしていないか
  • 断れなかったことを、後から相手の責任にしていないか
  • 自分ができる対応をした後も、結果まで管理しようとしていないか

境界線は、人を遠ざける壁ではなかった

私は以前、自分と相手を分けたら、人とのつながりがなくなると思っていました。

相手の問題を背負わなければ、冷たい人間になる。

自分の希望を伝えれば、関係が壊れる。

相手が変わるのを待てなければ、見捨てることになる。

しかし、境界がない関係では、自分と相手の希望の違いを扱えません。

相手へ合わせるか、相手を自分へ合わせるかのどちらかになってしまいます。

自分と相手が別々の人間だと認めることで、違う意見を持ったまま関わることができます。

相手を助けたいと思いながら、相手の選択を待つこともできます。

自分の希望を伝えながら、相手が断る可能性も受け入れられます。

境界線があるから人と離れるのではありません。違う人間のまま関係を続けるために、境界線が必要でした。

自分の領域を守ることは、自分の中へ誰も入れないことではありません。

何を伝え、何を頼み、何を自分で引き受けるかを選ぶことです。

相手の領域を尊重することも、無関心になることではありません。

自分の力では相手の人生を代わりに生きられないと認めることです。

線は一度引けば終わるものではなかった

現在の私も、人の反応を見て自分を責めることがあります。

相手へ期待しすぎたり、自分の考えを分かってもらおうとして説明を重ねたりすることもあります。

反対に、これは相手の問題だと考え、自分の責任を早く切り離したくなる場合もあります。

境界線は、一度正しい場所へ引けば、そのまま保たれるものではありませんでした。

相手との関係や、自分の体調、抱えている不安によって、位置が分からなくなることがあります。

そのような時には、具体的な出来事を人へ話します。

自分が何をしたのか。相手が実際に何を言ったのか。自分は何を期待していたのか。

話しているうちに、自分が人の責任を背負っているのか、自分の責任から逃げているのかが見えることがあります。

現在の私が立ち止まる問い

これは本当に自分が引き受けるべきことなのか。それとも、相手の感情や結果まで、自分が管理しようとしているのか。

はっきり分けられない問題もあります。

自分と相手の両方に責任がある出来事もあります。

その場合は、すぐに白黒を決めず、話し合ったり、第三者の意見を聞いたりすることも必要です。

私にとって境界線を引き直すことは、「これは自分のせいではない」と言い聞かせることではありませんでした。自分の行動は引き受け、他者の感情と選択は他者へ返すことでした。

ここに書いたことは、私自身の飲酒と回復、人間関係の経験から考えたものです。人との距離や責任の範囲は、関係や状況によって異なります。また、依存症の人がすべて同じような境界の問題を抱えているわけではありません。飲酒や人間関係によって生活の安全が損なわれている場合は、一人だけで整理しようとせず、医療機関や公的相談窓口などへ相談することも大切です。

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