人から「人当たりがいい」とか「いつも穏やかだね」と言われることが、昔は少しだけ、苦しかったような気がします。
なぜなら、その言葉は、私の外面だけを評価したものであって、内側にいる本当の自分を見てくれたわけではなかったからです。
外面では笑顔を保ちながら、内側では不安や劣等感で渦を巻いている自分。
この二人の自分の乖離が激しくなればなるほど、私は静かな息苦しさを感じていました。
今回は、なぜ私たちは「ありのままの自分」を隠してしまうのか。
そして、その自分を守るために作ったはずの自己防衛のルールが、いつしか自分自身を厳しく縛る窮屈な決まり事になってしまうという、その皮肉なメカニズムについて、私の内面を例にして、考えていきたいと思います。
自分を隠すという行動は、いつから始まったのか
そもそも、この自分を隠そうとする意識は、一体いつから築き始めたものだったのでしょうか。
原因は、おそらく、とても些細な、そして数えきれないほどの過去の体験にあったように思います。
ありのままの感情を出した時に、親や誰かに否定されたり、あるいは笑われたりした経験。
そんな小さな傷つきの積み重ねが、「素の自分は、人前に出すべきではない恥ずかしいものだ」という学習を、私の無意識に深く刻みつけていったのかもしれません。
そして、その「恥ずかしい自分」がこれ以上傷つかないように、私は心の周りに他者との境界線をはっきりと引くようになりました。
それは他者からの批判という脅威から、あまりにも脆い自分自身を守るための、必死の防衛策だったと言えます。
自分を守るための、自分だけのルールを作り始めた瞬間だった気がします。
自己防衛が、自己束縛に変わる時
しかし、皮肉なことに、自分を守るためだったはずのルールは、時間と共にその役割を静かに変えていった気がします。
他者から隠された「本当の自分」は、誰にも見られることなく、しかし着実にエネルギーを溜め込んでいきます。
「もっと自分を表現したい」「本当はこう感じているんだ」と。
そして、その内なる声が大きくなればなるほど、それを押さえつけるためのルールも、さらに厳しく、強固なものにしていかなければならない。
この矛盾した状態、というか、自分の中で起こる壮絶な「自作自演」の戦いは、心をひどくすり減らしていきました。
自分を守るために築いたはずのルールが、いつしか自分自身をがんじがらめに縛り付けていた。そして、そのルールを厳格に守り、自分を監視していた看守もまた、他の誰でもない自分自身だったのです。
この息苦しさから逃れるために、私もまた、アルコールの力を借りていた時期がありました。
アルコールは、理性の力で作られた自分の中のルールを一時的に緩め、ほんの少しだけ心を解放してくれるような錯覚を与えてくれます。
しかし、それは根本的な解決にはならず、むしろ依存を深め、自分を縛るルールをより一層強固なものにしてしまうだけの行為でした。
自分を隠しきれなくなる瞬間
やがて、内側から溢れ出そうとする力と、それを押さえつけようとするルールの間の摩擦が限界に達した時、そのルールは機能しなくなります。
それは、もう耐えきれなくなった、という絶望的な瞬間に見えるかもしれません。
これまで必死に隠してきた、惨めで醜いと思っていた自分自身を、全て人前に晒け出すことになるのですから。
しかし、その時、私は一つの真実に気づかされたような気がします。
全てを隠しきれなくなり、ありのままの自分を晒け出した私を、誰も責めなかったのです。
私が「醜い」と信じ込んでいた内面の自分は、他者にとっては、決して恥ずかしい存在ではありませんでした。
私が恐れていたものの正体は、他者の視線ではなかったのかもしれません。
自分自身で自分の内面を「醜いものだ」と決めつけ、それを他者に見せる前から、勝手に絶望していただけだった。ただ、正直に表現して、他者の反応を「確認」してこなかった。
恐怖の源は、自分の内側にあった根拠のない思い込みに過ぎなかったのです。
自己開示とは、何か特別な自分を演じることではなく、むしろその逆だったように思います。
自分を縛り付けていた、古いルールを手放し、自分自身を解放してあげること。
そして、「ありのままのあなたは、決して恥ずかしい存在ではなかった」と知る、そのための静かで感動的な体験。
それが、自己開示の本質なのかもしれないと、今の私は思うのです。

アルコール依存症当事者です。
2020年7月から断酒しています。
ASK公認依存症予防教育アドバイザー8期生