「外面のいい自分」のままでも、自己開示で心は軽くなった

回復のヒント

「人当たりがいい」「いつも穏やかだね」と言われるたび、私は少し寂しくなりました。

相手が見ていたのは、私が人前へ出すために整えた姿でした。その奥にいる自分は、誰にも知られていないと感じていたからです。

私は、人に嫌われないように振る舞うことが得意でした。

相手が不快にならない言葉を選び、場の空気を読み、怒りや不満を外へ出さないようにしていました。

そのため、周囲からは穏やかで、問題の少ない人に見えていたと思います。

しかし内側では、不安や劣等感、孤独、言葉にできない怒りが動いていました。

外面を整えるほど、内側にいる自分は、人との関係から取り残されていきました。

人とうまく関われているように見えても、私は自分自身を人間関係の中へ出していませんでした。

なぜ、よい評価を受けても寂しかったのか

人からよく思われることは、本来ならうれしいことです。

私も、人当たりがよいと言われること自体が嫌だったわけではありません。

ただ、その評価を受けた時に、「それは本当の自分ではない」という感覚が残りました。

私は外では、相手に合わせた自分を見せていました。

困っていても困っていないように見せ、怒っていても穏やかに振る舞い、分からない時にも分かったような返事をしました。

その姿を評価されると、外面の自分は認められます。

一方で、内面にいる自分は、ますます表へ出にくくなりました。

褒められるほど、私は「この姿を崩してはいけない」と感じていました。

相手が私の内面を見抜かなかったことを、責めることはできません。

私自身が、それを見せないようにしていたからです。

理解されないことを寂しく感じながら、理解するための材料を相手へ渡していませんでした。

自分を守るための決まりが増えていった

私は、自分の内面を人へ見せることを恥ずかしいと感じていました。

弱さを見せたら、軽く扱われるかもしれない。

怒りを出したら、嫌な人間だと思われるかもしれない。

困っていることを話したら、面倒な人間だと思われるかもしれない。

そのような不安から、自分の中に小さな決まりを作りました。

私が守っていた決まり
  • 相手を困らせることを言わない
  • 怒りや不満を表へ出さない
  • できないことを簡単に認めない
  • 自分の問題を人へ持ち込まない
  • 人前では落ち着いた自分でいる

これらは、自分が傷つかないために作った決まりでした。

初めのうちは、人間関係を安全にするために役立っていたと思います。

しかし、守る決まりが増えるほど、人前で使える言葉は減りました。

本当は言いたいことがあっても、その言葉が相手へどのような影響を与えるかを考えすぎました。

最後には、何を話せばよいのか分からなくなりました。

内側へため込む量が増えていった
最初
日常化
限界前

外から見える私は穏やかなままでした。

しかし、外へ出せなかった感情は消えず、内側に残っていました。

外面の自分を支えるために、酒が必要になった

外面を整えて生活することには、かなりの疲れが伴いました。

人と会う時には、自分の言葉や表情を確認し続けます。

人と別れた後には、自分の発言が間違っていなかったかを考えました。

怒りや不安が生じても、それを人へ伝えることはできません。

私は、その疲れや感情を酒で処理するようになりました。

酒を飲めば、人前で抑えていたものが一時的に緩みました。

自分の言葉を細かく監視せずに済み、不安や寂しさも感じにくくなりました。

酒は、外面の自分を維持した後に生じる疲れを引き受けていました。

酒は本当の自分を表へ出す方法というより、本当の自分を人へ見せないまま、内側の苦しさを処理する方法でした。

酒があれば、相手に本音を話さなくても、その日の感情を一時的に終わらせることができます。

そのため私は、話す必要をますます感じなくなりました。

人へ話さないから酒が必要になり、酒で処理できるから人へ話さない。

酒と外面の自分は、お互いを維持する関係になっていました。

初めて話す場所は、裁判のように感じた

自助会で自分のことを話す時、私は自分の罪を告白するような感覚を持っていました。

人に知られないように守ってきた失敗や弱さを、自分の口で外へ出さなければならないからです。

話した後に軽蔑されるのではないか。

自分だけが異常な人間だと分かってしまうのではないか。

そのような不安がありました。

しかし、そこで話している人たちは、自分の失敗を隠そうとしていませんでした。

私なら墓場まで持っていきたいと思うような話を、人が自分の言葉で話していました。

それでも、話した人は否定されず、その場所から追い出されることもありませんでした。

私は自分が話す前に、「人が本当のことを話しても関係が終わらない場面」を何度も見る必要がありました。

その経験によって、私の中にある前提が少しずつ変わりました。

弱さを話したら必ず拒絶される、とは限らない。

失敗を知られたら人間としての価値を失う、とは限らない。

そう考えられるようになると、私も自分のことを少し話せるようになりました。

すべてを理解してもらおうとして、また苦しくなった

自分のことを話し始めた頃の私は、話せば相手に理解してもらえると期待していました。

本当の気持ちを正確に伝えれば、自分の苦しさを分かってもらえる。

分かってもらえれば、自分は受け入れられたと感じられる。

その期待がありました。

しかし、どれだけ言葉を尽くしても、他者が私の内面を完全に理解することはできません。

相手の反応が思っていたものと違うと、私は再び拒絶されたように感じました。

話す前に怖がり、話した後には相手の反応を確認する。

自己開示が、別の緊張を生むこともありました。

自分のことを話す目的を「完全に理解してもらうこと」にすると、相手の反応によって自分の価値が決まる状態へ戻りました。

私に必要だったのは、相手にすべてを分かってもらうことではありませんでした。

自分の内側に閉じ込めていたものを、少し外へ出すことでした。

自己開示を、閉め切った部屋の換気として考える

現在の私は、自己開示を、閉め切った部屋へ風を通すことに近いと考えています。

部屋の中をすべて公開する必要はありません。

家具を外へ運び出したり、壁を壊したりする必要もありません。

窓を少し開け、たまっていた空気を入れ替えるだけでも違います。

自己開示を「換気」として考える
閉め切った状態

考えや感情を自分の中だけで反復し、外から別の視点が入らない。

少し話した状態

すべては解決しなくても、言葉にしたことで内側の停滞が少し動く。

相手から正しい答えをもらえなくても構いません。

十分に共感してもらえないこともあります。

それでも、「自分は今こう感じている」と言えた事実は残ります。

話して自分の声を聞くことで、初めて自分の感情が分かることもあります。

自己開示は、相手に自分を完成させてもらう行為ではなく、自分の内側へ風を通す行為になりました。

話す量は、自分で選んでよかった

自己開示という言葉から、過去の秘密や感情をすべて話すことを想像する場合があります。

しかし、私は何でも誰にでも話す必要はないと考えています。

相手との関係や、その場の安全性、自分の状態によって、話す量を選ぶことができます。

1 状態だけ伝える

「今日は少し疲れています」「今は余裕がありません」と、現在の状態だけ話す。

2 感情を一つ伝える

「少し不安です」「本当は腹が立っています」と、感情を一つだけ言葉にする。

3 必要なことを伝える

「今日は聞いてほしいです」「この部分を一緒に考えてほしいです」と、希望を添える。

最初から出来事の背景や過去をすべて説明しなくても構いません。

自分が扱える範囲で、窓を少し開けることができます。

話す前に、自分へ確認していること
  • この相手には、どこまで話してもよいと感じるか
  • 今は話を聞いてほしいのか、具体的な意見が必要なのか
  • 話した後に疲れすぎない量はどの程度か
  • 今すぐ話せない場合、後で話せる場所があるか

話さないと決めることも、自分で選べます。

大切なのは、恐怖によってすべてを隠すことと、自分で考えて話す範囲を決めることを分けることでした。

安全な場所は、現実へ戻るための練習場所になった

自助会で話せるようになったからといって、日常のすべての人間関係で同じように話せるわけではありません。

職場や家族、知人との関係には、それぞれの事情があります。

話したことで理解されない場合もあります。

否定されたり、軽く扱われたりすることもあります。

私は以前、一つの場所で拒絶されると、世界全体から拒絶されたように感じていました。

しかし、安全に話せる場所が別にあると、日常で傷ついた時にも、すべての居場所を失ったわけではないと考えられます。

日常の人間関係

理解されないことや、言葉が行き違うこともある。相手や状況に合わせて、話す範囲を選ぶ場所。

安全に話せる場所

まとまっていない気持ちを言葉にし、自分の状態を確かめ、日常へ戻る準備をする場所。

自助会は、現実社会の代わりではありませんでした。

現実の中で人と関わるために、自分の言葉を試し、失敗しても戻れる場所でした。

居場所が一つだけではなくなることで、人との関係に対する怖さが少し小さくなりました。

世界中の人に受け入れてもらう必要はありませんでした。理解されなかった時にも戻れる場所があることが、日常で人と関わる支えになりました。

外面のいい自分を、完全にやめたわけではない

私は現在も、場に合わせて振る舞います。

相手への気遣いもしますし、すべての本音をそのまま口にするわけではありません。

外面を持つこと自体が、間違いだとは考えていません。

社会で人と関わるためには、ある程度自分を整えることも必要です。

問題だったのは、外面の自分だけが、人との関係へ参加していたことでした。

内側にいる自分は、酒と一緒に取り残されていました。

現在は、内面をすべて見せるのではなく、時々窓を開けるようにしています。

疲れていることを伝える。

分からないと話す。

少し困っていると伝える。

それだけでも、外面と内面の距離は以前より小さくなります。

外面のいい自分を壊したのではありません。その自分の奥にいる人間へ、少しずつ風を通すようになりました。

自己開示によって、必ず相手と深く理解し合えるわけではありません。

しかし、自分を閉じ込めたまま人と関わる必要はなくなりました。

相手が完全に理解してくれなくても、自分が自分の内面を無視しなければ、以前とは違います。

ここに書いたことは、私自身の飲酒と回復の経験から考えたものです。自己開示は、誰にでも無条件に行うものではありません。相手との関係や安全性を確かめ、自分が話せる範囲を選ぶことが大切です。話すことによって危険が生じる関係では、距離を取ったり、専門的な相談先を利用したりする選択も必要です。

タイトルとURLをコピーしました