「アルコール依存症は病気です」
この言葉を、あなたも一度は耳にしたことがあるかもしれません。
支援の現場や医療機関で、あるいは当事者の口から語られる、もはや決まり文句とも言えるフレーズです。
しかし、依存の渦中にいる者にとって、この言葉は時として、どこか他人事で、無責任な「免罪符」のように響くことがあります。
「病気だから、仕方ない」——。
その言葉が、もし「飲み続けることの言い訳」として使われるなら、それは回復への道を閉ざす、絶望の響きを帯びてしまいます。
今回は、この「病気」という言葉が持つ本当の意味と、回復の本質について、ある当事者の視点を通して深く掘り下げてみたいと思います。
アルコール依存症者と病的ギャンブラーの心理
断酒を始めたばかりの頃、多くの人が激しい飲酒欲求と、お酒への執着に苦しみます。
なぜ、あそこまで苦しいのか。
それは、失ったものを取り戻そうとする、終わりなき戦いの始まりだからかもしれません。
「今度こそうまくコントロールできるはずだ」
「一杯だけなら、きっと大丈夫」
「この前の失敗があるから、逆に理性が働くはずだ」
この思考は、まるで負けが込んだギャンブラーの心理に似ています。
負けた分を取り戻すには、さらにベットし続けるしかない。
天文学的な確率だとしても、勝ちの可能性がゼロでない限り、ゲームから降りることはできない。
依存症の渦中にある心も同じです。
「健常な飲酒」という、かつて持っていた(あるいは持っていたと信じている)人生を取り戻すために、「飲む」というベットを繰り返してしまう。
その行為がどれほど過酷で、自分を傷つけるものだと分かっていても、「ここで降りたら、今までの負けが全て確定してしまう」という恐怖が、私たちをテーブルに縛り付けるのです。
「負けを認める」という本当の勝利
では、この苦しい戦いから抜け出す道はどこにあるのでしょうか。
それは、さらに強い意志で戦い続けることではありません。
逆説的ですが、「自分はもう負けた」と、潔く認めることでした。
「病気であると認める」ということの本当の意味は、ここにあります。
それは、飲酒というゲームにおいて、自分はもう勝てないと認めること。
コントロールするという勝ち筋を完全に手放し、飲酒者としての人生を「諦める」ことなのです。
それは、ギャンブルで途方もない借金を背負ってしまった人が、「もうギャンブルでは取り返せない。
これからは地道に働いて、堅実に返していくしかない」と覚悟を決める瞬間に似ています。
一見すると、これは「敗北宣言」です。
しかし、実際には、人生を破壊し続ける不毛なゲームから自ら降りるという、最も勇気ある、そして理性的な決断なのです。
「飲む力はない」と決める自由
「依存症」という状態は、ある意味で「障害」と捉えるとしっくりくるかもしれません。
それは、アルコールを正常に分解・処理し、飲む量をコントロールするという「能力」が、決定的に損なわれている状態です。
重い食物アレルギーの人が、その食べ物を口にしないのと同じように、「自分には、お酒を上手に飲む能力が、もうない」と認める。
あるいは、「ないことにする」と、自ら決める。
この「決定」こそが、私たちを解放してくれます。
「もしかしたら、うまく飲めるかもしれない」という、わずかな可能性に人生をすり減らす苦しみから、ようやく自由になれるのです。
一時的に「敗者」であると感じるかもしれません。
しかし、終わりなき苦痛から逃れられる解放感に比べれば、そんな烙印は何の意味も持たないことにすぐに気づきます。
過去の人生が負けであったとしても、その後の人生には何の影響もないのですから。
まだ戦い続けている、あなたへ
もし今、あなたが「病気だから飲み続けても仕方ない」という思いの中にいるとしたら、それはまだ、あなたが孤独な戦いを続けている証拠なのかもしれません。
「まだ、頑張ってるんだな。
早く楽になればいいのに」
この言葉は、回復の道を歩む多くの人が、過去の自分自身にかける言葉です。
誰かに説得されて戦いをやめることは難しいでしょう。
多くの場合、ひどく痛い目に遭い、自分自身の力で「もう無理だ」と気づかない限り、そのテーブルから離れることはできません。
ですが、知っていてほしいのです。
その苦しい戦いから降りた先に、「負け」ではない、「楽」で穏やかな人生が待っていることを。
そのための第一歩が、「病気」という言葉を「免罪符」としてではなく、戦いを終えるための「診断書」として、受け入れてみることなのかもしれません。

アルコール依存症当事者です。
2020年7月から断酒しています。
ASK公認依存症予防教育アドバイザー8期生