私は人の話を聞いているつもりで、自分を守るための反論ばかり考えていました。
家族や周囲の人が心配して言葉をかけても、その内容はほとんど心に入りませんでした。言葉が理解できなかったのではなく、受け入れることができなかったのだと思います。
飲酒していた頃の私は、人から何かを言われると、それを助言ではなく、批判や支配のように感じることがありました。
「飲み方がおかしい」「一度相談した方がいい」「このままではまずい」
そのような言葉を聞いても、自分の状態を考えるより先に、「この人には分からない」「自分の方が自分のことを知っている」と反発していました。
当時は、人の話を聞かないことによって自分を守っていたのだと思います。
- なぜ心配する人の言葉を受け入れられなかったのか
- 人の話を聞くことを、なぜ敗北のように感じていたのか
- 自助会で人の話を聞き続けたことで起きた変化
- 現在、私は「聞くこと」をどう考えているか
人の話を聞くことは、自分の間違いを認めることだった
私は、自分の問題は自分で何とかしなければならないと思っていました。
自分のことについて、人から指摘されたり助言されたりすることには抵抗がありました。
相手の言葉を受け入れれば、自分の考え方や行動が間違っていたと認めることになります。
それは、単に一つの判断を訂正することではありませんでした。
自分では自分を管理できない。自分だけでは問題を解決できない。酒について、自分より他人の方が正しく見えている。
そのような事実を認めることが、私には耐えがたいことでした。
だから、相手が何を伝えようとしているのかを理解するよりも、なぜ相手の意見が間違っているのかを考えました。
言葉を聞いていても、実際には自分の立場を守るための材料を探していたのだと思います。
相手をどう見ているかで、聞く内容を選んでいた
振り返ると、私は誰の話もまったく聞かなかったわけではありません。
自分が価値を感じる人や、この人には自分より分かっていることがあると思える相手の話は聞いていました。
反対に、「この人より自分の方が分かっている」と感じた相手の言葉は、ほとんど受け入れませんでした。
人の話を聞くかどうかを、話の内容だけでなく、相手との関係や、自分の中でつけた評価によって決めていたのだと思います。
私は話を聞いていたのではなく、誰の話なら聞いても自分の立場が傷つかないかを選んでいました。
このことは、現在も完全になくなったとは思っていません。
今でも、自分にとって価値があると思う話には耳を傾け、価値がないと思った話を聞き流すことがあります。
ただ、当時との違いは、自分がそのような選別をしている可能性に気づけるようになったことです。
「この人の話は分からない」と感じた時にも、本当に内容が分からないのか、それとも相手を低く見ているために聞けないのかを、少し考えられるようになりました。
酒を飲むほど、自分だけの説明が完成していった
飲酒を続ける中で、私は酒を飲む理由を自分の中で説明するようになりました。
酒がなければ話せない。酒がなければ休めない。酒がなければ感情を処理できない。
自分には酒が必要なのだから、周囲の人が心配しても、その人たちには自分の事情が分からないと思っていました。
その説明は、酒を飲むたびに強くなりました。
人の言葉を聞けば、自分が作っていた説明が崩れるかもしれません。
だから、周囲の言葉を遠ざけ、自分の考えだけで問題を処理しようとしました。
人の話を聞かずにいれば、その場では自分を守れました。
しかしその結果、自分の状態を外から見る機会も失いました。
自助会でも、最初は人の話が理解できなかった
自助会につながった後も、すぐに人の話を聞けるようになったわけではありません。
最初の私は、周囲の人たちを自分とは違う人間だと見ていました。
なぜ、そのような失敗を人前で話せるのか。なぜ、恥ずかしいことを隠そうとしないのか。なぜ、普通の人間であろうとしないのか。
私には分かりませんでした。
自分はここにいる人たちとは違うと思いたい気持ちもありました。
それでも私は、その場に参加し、人の話を聞き続けました。
そこでは、人が話している間に口を挟まないことや、聞いた内容を外へ持ち出さないことが大切にされていました。
誰かの体験に、その場で評価や説教が加えられることもありませんでした。
私にとっては、それほど安全性が整えられて、ようやく人の話を聞き、自分の話を考えられる場所だったのだと思います。
話を理解する前に、まず「ここで話しても攻撃されない」と知る必要がありました。
理解できてしまったことで、自分も同じ側にいると気づいた
人の話を何度も聞いているうちに、自分との共通点が見つかるようになりました。
初めは理解できなかった失敗や感情にも、「自分にも似た部分がある」と感じることがありました。
もし、何度話を聞いてもまったく理解できなければ、自分はこの人たちとは違うと思い続けられたのかもしれません。
しかし、私は理解できてしまいました。
人の話を通して、自分も同じように酒の問題を抱え、隠し、孤立してきたことが見えるようになりました。
それまで私は、相手の失敗を「自分とは違うもの」として見ていました。
共通点に気づくと、相手を簡単に否定できなくなりました。
相手に少し優しい気持ちを持てるようになると、自分の失敗についても、以前とは違う見方ができるようになりました。
聞くことは、相手の言う通りにすることではない
以前の私は、人の話を聞くことを、相手に従うことと同じように感じていました。
聞けば負ける。受け入れれば自分が下になる。相手に支配される。
そのような感覚があったため、話の内容を検討する前に拒絶していました。
現在は、聞くことと、相手の判断に従うことは別だと考えています。
話を聞いた後で、違うと思うこともあります。今の自分には理解できない話もあります。
それでも、最初から完全に否定しなければ、その話を自分の中に一度置いておくことができます。
今は分からなくても、後になって分かることがあるかもしれません。
聞くことは、相手を正しいと認めることではなく、自分がまだ知らない可能性を残すことなのだと思います。
人の話を受け入れれば、自分の間違いや弱さを認めることになると感じ、反論して自分を守っていました。
理解できない話でも、すぐに否定せず、一度聞いておくことはできると考えています。
現在も、私は聞くことを練習している
私は、回復したから人の話を正しく聞けるようになった、とは思っていません。
今でも、相手によって話を聞き分けています。自分に都合の悪い言葉を避けることもあります。
ただ、そのことにまったく気づかなかった頃とは違います。
相手の話を拒絶したくなった時、自分は何を守ろうとしているのかを考えることがあります。
自分の価値なのか、正しさなのか、恥ずかしい部分なのか。それとも、過去の自分を否定されたくないだけなのか。
そうして少し間を置くことで、以前なら聞かなかった言葉にも耳を傾けられることがあります。
人の話を聞けば、必ず問題が解決するわけではありません。
しかし、人の話をすべて拒んでいた頃の私は、自分の中にある考えだけで、自分の問題を見ようとしていました。
現在の私は、他者の話を通して初めて見える自分もいると考えています。
ここに書いたことは、私自身の飲酒と回復の経験から考えたものです。人の話を受け入れにくくなる理由や心理は人によって異なり、すべてのアルコール依存症者に同じ状態が当てはまるわけではありません。

アルコール依存症当事者です。
2020年7月から断酒しています。
ASK公認依存症予防教育アドバイザー8期生


