なぜ人の話が聞けないのか -「無力」の自覚と「聴く」ことの深い関係
アルコール依存症の当初、私は人の話を聞くことが全く出来ませんでした。
家族や友人が、心配してかけてくれる言葉も、どこか遠い世界のことのように感じていたのです。
多くの人が、アルコール依存症の問題は、本人の「聞く耳」のなさにあると感じるかもしれません。
それはなぜなのでしょうか。
今回は、回復に不可欠なコミュニケーションの基本である「聴く」という行為の裏側にある、私たちの心の働きについて考えていきたいと思います。
聞くことと「パワーバランス」
まず前提として、人が誰かの話を真剣に「聴く」かどうかは、多くの場合、相手との間に無意識に設定した力関係、つまり「パワーバランス」に左右されます。
例えば、自分が尊敬する人や、この人には敵わないと感じる相手の言葉は、自然と心に入ってくるでしょう。
しかし逆に、「自分の方がこの件についてはよく知っている」と感じている相手の話は、無意識のうちに聞き流したり、心の中で反論したりしてしまいがちです。
人の話を聞けるかどうかは、多くの場合、相手との間に無意識に設定した「パワーバランス」に左右されます。
「自分の方が上だ」と感じている相手の言葉は、心に届きにくいのです。
この心の働きが、時として私たちから大切なメッセージを遠ざけ、健全なコミュニケーションの妨げとなってしまいます。
心が閉ざされている時
この視点を、アルコール依存症の問題に当てはめてみましょう。
依存の渦中にいる人は、数えきれないほどの忠告や助言を受けます。
しかし、その言葉のほとんどは、本人の心に届きません。
なぜなら、この時の本人は「自分はまだ大丈夫」「自分の問題は自分で何とかできる」という万能感にしがみつき、自分が「無力」であるという現実を認めることができないからです。
この状態は、いわば自分自身や周囲の全てに対して「自分の方が上だ」と無意識に宣言しているようなもの。
だから、どんなに愛情のこもった言葉も、正しい助言も、心の壁に弾かれ、有効なコミュニケーションが成立しないのです。
「降伏」が、耳を開くとき
その固く閉ざされた心の扉が、開く瞬間があります。
それは、依存との孤独な戦いを繰り返し、心身ともに疲れ果て、自分一人の力ではどうにもならないという現実に直面した時です。
つまり、自分の「無力」を認めざるを得なくなった瞬間です。
しかし、依存の戦いに敗れ、自分の「無力」を認めざるを得なくなった瞬間、驚くほど素直に他者の言葉が心に入り込み、「助けてほしい」と言えるようになります。
降伏こそが、本当の対話、すなわちコミュニケーションの始まりなのです。
自分が一番下にいる、最も無力な存在なのだと認めた時、初めて全ての人の言葉が、自分を助けてくれるかもしれない貴重な情報として、心に届き始める。プライドという名の壁が崩れ落ち、初めて本当の意味で他者と繋がれる瞬間です。
回復後の、新しい「聞き方」
アルコール依存症から回復し、新しい自分としての自信を取り戻していくと、再び「聞く相手を選ぶ」という感覚が戻ってくるかもしれません。
しかし、その「聞き方」は、以前とは全く質が異なります。
なぜなら、回復した人は「自分が無力であった期間を知っている」からです。
かつての自分と同じように、無力さを認められず、人の話が聞けない状態にある人の姿を見ても、それを軽蔑したり、断罪したりしません。
むしろ、その頑なな態度の裏にある苦しみを想像し、興味を持って、辛抱強く耳を傾けることができるようになります。
真に「聴く」という行為は、テクニックではありません。
それは、自身の無力さを知ることから生まれる、他者への深い敬意と優しさの表れであり、豊かなコミュニケーションの土台なのかもしれません。

アルコール依存症当事者です。
2020年7月から断酒しています。
ASK公認依存症予防教育アドバイザー8期生